旅は長ければ良いということはない

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世界一周などの長期旅行者たちと話していると、自らも含め彼らが独特の言い回しを自然と用いていることに気が付く。

 

旅人と旅行者

 

この二つの言葉を会話の中で奇妙に使い分けるのである。

前者が、数ヶ月あるいは数年単位で様々な国を訪れる長期旅行者を指す一方、後者は往復航空券を購入し、一つあるいは少しの国を訪れた後に帰国する短期旅行者を指しているようだ。

 

 

 

誤解を恐れずに言いたい

 

“旅人”が同じ場所に滞在する”旅行者”を引き合いに出す時、そこには何処と無く自らの優位を誇示するかのような大人気なさが漂う。

かく言う私も、「短期旅行者=旅慣れていない」というレッテルを幕無しに貼り付け、少し旅慣れた風情の自分を風上に置いてしまったという経験がある。

 

畢竟、全ての人が彼らの時間と金を使い、その意思の元に旅行をしているのだから、そこに甲乙付けようという考えがナンセンスであることは誰にしてみても明らかであろう。

 

 

もちろん、「旅慣れている」ということは時に価値を発揮する。
移動をスムーズにこなしたり、或いは身の安全を護るコツのような物は確かにある。

 

 

しかし、それと同時にその「旅慣れている」ということがもたらす害悪も存在するように感じている。

非日常であるはずの「外国にいるという体験」が日常化し、様々な場所・観光名所での新鮮味と目を輝かせるような感動が薄れるのである。

全ての長期旅行者がそうであるとは言わないが、少なくとも物事に飽きやすい私にとって、かなりそういった正の感情が薄れていた時期がある。

飛行機移動を経てある国に着いた時、国を変えたにもかかわらず、そこにあるのは単に違った言葉と顔つきだけであった。

 

 

想像してみて欲しい。

日本からこの国に飛行機でやって来たとするならば。

そこにあるのは、単に違ったというだけではない、驚きと感嘆に満ちた異国の文化である。物の値段がまるで違うことに驚き、物の売られ方が違うことに感嘆の声を漏らす。

遠く離れた国の地を踏むということにおいてこれがあるべき姿であろう。

 

 

 

しかしながら、そういった事情を差し置いてなお、人々が短期ではなく長期で旅行に出かける理由が掛け値無しに存在する。

 

 

ある人は言う、
「飛行機を使わずに、陸路でじっくりと旅をしてみたい」

 

またある人は言った
「世界の食を網羅したい」

 

こういった「テーマのある旅」をする人々にとり、短期でその都度帰国するというやり方では、そのテーマを実現させることが出来ない、あるいは著しく効率を下げるのが現実である。

また、特定のテーマを持たず「とにかく自分の行きたいところに行く」という旅のやり方をしていても、

「もし時間とお金があるならば、世界一周はしないでその都度帰国しながら毎回新鮮な気持ちで観光するだろう」

と語る旅人に私は会っている。

 

 

つまり、世界一周をする旅人たちの中にもそういった帰納的な考えから、数年単位で長期の旅に出かけている人々がいるということである。

そしてこういった人々にとって、結果的に旅行が長期に及ぶことはあるにしても、いたずらにそれが長くなることは本質を逸しており、それは彼らにとって

旅行ではなく生活

また逆にそれを本質とするならば、旅が人生そのものになっているとも言えるだろう。

 

 

 

こうして、短期旅行と長期旅行について述べた。

上にも述べたように、旅行が生活の一部と化している人がいるのは事実である。そしてそれを否定する動機を私は持たない。

しかしあくまでも、生活の外に置かれた「非日常」としての旅行を語るとするならば、最後にもう一度繰り返したい。

 

 

旅の長さのみでその価値を測ることはなんと無意味だろうか。

長期と短期の旅それぞれに持ち味があり、お互いを否定してはならない。

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