「大村智 2億人を病魔から守った化学者」を医学生が読んだ感想

Pocket

スポンサーリンク

まず僕の感想に先立って、今回ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智先生の開発した「イベルメクチン」がいかにすごい薬であるか、本書の言葉を借りてご紹介したい。

 

世界には多数の感染症があり、その病期に投与される抗生物質もまた多数ある。しかし年1回の服用だけで効果が出るのはこのイベルメクチンだけと言ってもいいだろう。多くの抗生物質は耐性菌が登場して悩ませるが、イベルメクチンは1987年に最初に使われて以来、年間2億人内外の人々に投与されているのに耐性線虫の確たる存在は証明されていない。

中略

イベルメクチンを服用すると体内に棲みついているミクロフィラリアをことごとく殺虫して消滅させる。これを年1回服用すれば、ミクロフィラリアを他人にうつすこともうつされることもなくなる。失明する危険もゼロになる。フィラリアの成虫を持っている患者には効かないが、新しい感染者を出さなければいずれは絶滅できる。アメリカのメルク社は、この薬剤成分の発見者である大村の同意を得て、1988年から無償で必要なだけイベルメクチンを蔓延国に提供していた。

 

僕は医学生として色々な感染症や抗生物質を勉強したが、

こんな「夢の様な抗生物質」は聞いたことがない。

年に1回服用するだけで、予防も治療も出来てしまい薬剤耐性も作られない抗生物質。

しかも、今まで多くの人から「光を奪ってきた病」河川盲目症や象皮症、糞線虫、さらには疥癬の治療薬にもなっている。

 

しかし、こんな「魔法の薬」を学会で発表した時には、当時の人からは懐疑の目を向けられることもあったようだ。

その時の学会の異様な興奮を本書では以下の様に綴っている。

 

素晴らしい研究成果を発表したときの学会の会場は、聴衆も興奮して一種異様な雰囲気になるが、この時も同じような雰囲気だった。質問の中で多かったのは「本当に1回だけで効くのか?」「なぜ1回だけでいいのだ」というものだった。

これに対し大村らは「効くから1回なのだ」と切り返して会場を沸かせた。

その学会発表があってからさまざまなジャーナルで取り上げられ、イベルメクチンの有効性が一般の人々の間でも有名になっていった。

 

 

 

 

伝記「大村智 2億人を病魔から守った化学者」を読むと、

大村智という人の人生は、実に彩り深いものだということが分かる。

 

彼は人生を通して、研究者であり、経営者であり、教育者であり、

そして、芸術家であった。

 

研究者として「イベルメクチン」だけでなく、「スタウロスポリン」や「セルレニン」「ラクタシスチン」といった多くの発見をし、医薬、動物薬、研究用試薬に多大な影響を与えた。

 

経営者として、研究の経営も病院の経営もこなした。

当時蔑まれていた「産学連携」で大きな成果をあげ、特許ロイヤリティで莫大な収益を確保し、北里大学メディカルセンターという新しい病院を設立した。

 

教育者として、14年間にわたり女子美術大学の理事長を務めた。

また人生をわたって「良き指導者」であることを自らに課していた。

 

そして、彼はこよなく絵画を愛し、人生を通して美術作品を収集した。

さらには、私費5億を投じて「韮崎大村美術館」を建設し、1800点にも及ぶ展示作品と共に、その全てを韮崎市に寄贈している。

 

 

以上にわたって大村智先生がいかにすごいことを成し遂げてきたか、ということを書いた。

 

でもそれは彼が「何を」したかに言及したにすぎない。

 

この本を読んで、

「なぜ」彼にこの偉業を成し遂げることが出来たか、と考えた時にその答えは意外なところにあるのかも知れない、と思った。

 

それは2つ

 

「親の教育」「妻の協力」である。

 

もちろん、彼は社会人を夜間学校の教師から始めているという異例の経歴で、空き時間や土日を返上で研究に勤しんだという努力の人だ。

アメリカに留学した時も、自ら企業に交渉し研究費を捻出したり、企業との特許ロイヤリティの交渉も断固として行っている。

本人の努力、人柄、胆力が素晴らしいのは言うまでもない。

 

 

 

その上で、「親の教育」や「妻の協力」があったからノーベル賞級の仕事が出来たのだなと感じた。

 

高校3年まで親の仕事を継ごうと考えていた大村に「勉強したいなら大学に行ってもいいぞ」と言い、大学への道を提示したのは父親であった。

その当時、兄弟全員が大学に進学出来たのは地元でも大村家くらいだったという。

 

また、教師であった母の言葉も、座右の銘として伝記に幾度となく登場する。

「教師の資質は自らが成長し続けていることである」といった言葉である。

母親は養蚕もしており、毎日養蚕ノートをつけデータを収集分析し、始めて3年で品評会で優勝する繭を育てるまでになったというエピソードまである。

そういった影響を一身に受けて、成長したのだった。

 

 

27歳で結婚した文子さんの協力もなくてはならないものであった。

 

得意のそろばんを近所の子に教えて家計を支え、夜中まで実験している大村さんに夕食を運び、時には実験のデータの計算をしたりして、大村さんをサポートした。

研究者として駆け出しで貧しいころは、資産家の娘である文子さんにお金を工面してもらい経済的に助けてもらったこともあった。

大村さんが研究や経営に行き詰まった時に、文子さんが恩師に相談に行き人を紹介してもらって事がうまく進む、ということが何度もあった。

 

 

 

 

 

ここまで書いてきて、

 

でも、

 

と思う。

 

大村さんがノーベル生理学・医学賞を受賞した時に言った言葉が、

ふいに僕の頭に浮かんだからだ。

 

「私自身がものを作ったり、難しいことをしたりしたわけではない。全部微生物の仕事を整理しただけ。それなのにこんな賞をいただいていいのかな」

 

大村さんは特許等で手にした250億のうち、220億を北里研究所に寄付し、

手元に残ったお金も大半は地元に還元するために、学校・美術館・温泉などに使ったという。

 

そんな周りに感謝し、常に謙虚な大村さんの人柄が、

支えてくれる多くの人との出会いや世紀的発見のチャンスを引き寄せ、

今回のノーベル生理学・医学賞を受賞するに至ったのだ、と思った。

 

 

 

最後に、大村さんが夜間高校の教師をしている時に「本当の研究者になろう」と決心した時の逸話を引用して、終わることにする。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した時の記者会見での言葉である。

 

私も大学出たばかりだからまだ若造、青年ですよね。それで、ある意味じゃあ多感だった、まだね。それでいきなり高等学校の先生になるんですが、夜間の先生になります。そうしますと、夜間高校の工業高校ですから、その近辺の工場から仕事を終えて駆け込んできて勉強する人たちがほとんどなんですね。

それでそういう人たちが、あるとき試験を、最後の期末試験があったときに、私、監督で回っていると、飛び込んできた1人が、まだ手が油、手のこの周りに油いっぱい付いて、それでよく洗う時間もなかったと思うんですよ、手をね。そういうのを見まして、ああ、こういうふうにして勉強してるのに、いったい私はなんなんだと。これは非常に私にとっては非常にショックだったっていうか、これはもっと勉強しなきゃいかんなと。ここから始まったんですよ。本当の研究者になろう、と思ったんです。

 

前の記事
次の記事
Pocket