フェルマーの最終定理として知られるこの定理は、
300年以上誰にも証明されることもなく数学界最大の難問として君臨していた。
天才数学者たちを翻弄してきたフェルマーの最終定理に、
なぜこれほどまで数学者たちが惹きつけられるのかと言えば、
それはピエール・ド・フェルマーが書き残したメモにあるに違いない。
“cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non caperet.”
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」
フェルマーが証明できるとしたこの命題に数多くの数学者が挑んだが、
1637年ごろに公表されてから、200年以上誰も証明出来ないままであった。
1908年、そんな「フェルマーの最終定理」はある出来事をきっかけに脚光を浴びることとなった。
パウル・ヴォルフスケール博士が遺言で、
「数億円相当の財産をフェルマーの最終定理を証明した者に譲渡する」と言い残したのであった。
なぜ、ヴォルフスケールがこのような懸賞金をかけたかと言うと、
それはひとえにフェルマーの最終定理に命を救われたからに過ぎない。
資産家の家系に生まれたヴォルフスケールは、
若かりし頃、ある失恋を経験し自殺しようと計画する。
「深夜零時ぴったりにピストルで頭を打ちぬく」と決めたヴォルフスケールは、死ぬまでにやっておくことを済ませ、零時になるまで書斎で数学の本を読み始めた。
ヴォルフスケールは一族のビジネスを成功させるために人生の大半を費やしてきたものの、大学では数学を学び、片手間に数学者としても活動していた。
そんな彼は死ぬまでの時間に、当時「フェルマーの最終定理は現在の数学テクニックでは証明できない」ということを示していたクンマーの論証を読みふけっていたのだった。
その時、
「!?」
彼はクンマーの論証に小さな論理的飛躍を見つける。
「このギャップを埋める証明がなければ、クンマーの論証は破綻し、フェルマーの最終定理は解き得るという結論になる」
ヴォルフスケールは証明にのめりこんだ。
結果、ヴォルフスケールは証明に成功してしまい「フェルマーの最終定理は証明できない」とするクンマーの論証をより強固なものにした。
しかしながら、
その証明に熱中するうちに夜は明けていた。
さらに、自殺しようという気持ちもなくなっていたのだった。
こうしてフェルマーの最終定理によって命を失わずにすんだヴォルフスケールは、のちに「フェルマーの最終定理」に懸賞金をかけたのであった。
こういったドラマチックな演出も背景に、
フェルマーの最終定理は、遅々とした歩みで、徐々に、徐々に、証明されていくことになる。
まず、n=4でフェルマーの最終定理が成り立つことは、フェルマー自身によって証明されていた。
次に、”虚数”という概念を導入することでn=3の場合も成り立つことがオイラーによって証明された。
その後、フランスの女性数学者ソフィー・ジェルマンの活躍もあり、n=5, n=7でもフェルマーの最終定理が成り立つことが証明された。
しかし、こういった1つ1つ証明していく方法では、
「フェルマーの最終定理が成り立ちそう」ということは言えても、
「フェルマーの最終定理が成り立つ」ことは決して言えないのであった。
それは、nが3以上の全ての整数で成り立たないといけないからである。
こういったフェルマーの最終定理の証明とは全く別に、
日本人数学者が発表したある仮説が数学界を騒がせた。
「谷山=志村予想」と呼ばれ、のちにフェルマーの最終定理の証明のカギとなる仮説は、
「楕円方程式のE系列とモジュラー形式のM系列は、全て対応している」という今まで全くの別の領域と考えられている数学の2つの分野を結び付けたのであった。
「谷山=志村予想」は未証明だったのにも関わらず、もしもそれが証明されたらといった推測の形で何百もの論文が登場した。
そんな中、フライという数学者によって、フェルマーの最終定理を楕円方程式に変形する方法が提案され、
「谷山=志村予想」を証明すれば、
「フェルマーの最終定理」が証明されること、が示されたのであった。
1993年、
10歳の時にフェルマーの最終定理に魅せられ数学者を志し、当時プリンストン大学の教授として楕円方程式を研究していたアンドリューワイルズが、
講壇上でフェルマーの最終定理を書きながらはなった一言で、この本は始まる。
「ここで終わりにしたいと思います」
300年以上数学者たちを悩ませたフェルマーの最終定理は、
どのように証明されていったのだろうか。
どのような歴史があり、どのような苦悩があったのだろうか。
気になる方は、どうぞ。