第1話 エピローグ

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 2015年1月30日、ぼくは世界一周の旅に出た。

 あまり寒さの感じない、不思議な冬の朝だった。

 ほとんど何の企ても無いまま始まった世界旅行には、体内から漏れ出てしまう程の昂ぶりを感じていたが、それは溢れると同時にじっとりと湿った不安へ姿を変えて、ぼくの行動を周囲から監視しているようでもあった。

 興奮と不安が互いを盗み見しながら、どんどんと膨れ上がっている。

 それらは次第に心の中で混ざり合い、まるで川の乱流のように不確かなで不規則な動きを見せていた。

 様々な考えが川底へと沈められていく中、その水面に櫓を立てるように思考の整理を行い、ようやく気持ちを落ち着けることが出来た。

 次々に姿を変えていく蒙昧とした感情の最中、繰り返し頭に浮かんできたのは、「本当に旅は始まったのか」という疑問だった。

 どんなに可能性の低い将来よりも、そのことが一番信じられなかった。

 

ぼくは旅に出たのだ。

 

 一説によれば、現在世界一周の旅を楽しむ日本人というのは2000人とも3000人とも言われている。

 政府の統計によれば、2014年度の日本人海外旅行者の総数は約1690万人とのことであるから、世界一周旅行者の数を仮に2500人としても、その時ぼくには0.01%ほどの希少価値があったわけだ。

 もっとも、そんな数字は誰にとっても、無論ぼくにとっても関心を持つに値しないものであり、さしたる目標や目的地も持たないまま大学を休学し、ほとんど国外逃亡せざるを得ない状況の中、世界へ飛び出していったというのが現実の話であった。

 

seoul
韓国ソウルの空港にて

 

 1月30日、出発の空港で、ぼくは不安と期待を抑えきれずにいた。

 旅の出発が、どれだけ惨めでみすぼらしい逃亡劇であろうと、始まったと分かれば、未来に起こる何かを想うのは当然と言えるのかもしれない。

 不安とは、期待という言葉を別の言い方で表現したものに過ぎなかった。

 

―旅が終わった時、なにが変わっているのだろう
―どんなに素晴らしい経験ができるのだろう

 

 世界一周の旅が、ぼくの何かを変え、日本での現状を改善してくれると信じ、無責任で漠然とした希望を抱いていた。

 しかしながら、「世界一周」という行為に、何か特別な意味はあったのだろうか、と帰国した今になって思う。

「世界一周」、或いは単に「旅」と呼ばれたり、長期で海外を周遊する場合には、それを独特な言い回しで表す場合が多いが、その本質は、短期で向かう、いわゆる「旅行」と何も変わらないのかもしれない。

 期間に差こそあれ、旅行の実態とは、「自分で得た時間と金を使って、好きなように非日常を楽しむ行為」に他ならず、長期だからと言って特別な何かを要求してしまうのは、ともすると、おこがましい行為にもなり兼ねなかった。

 ぼくにとっても、旅をして何かが変わったか、と聞かれれば、おそらく首を縦に振ることはないだろう。自分自身が大きく変わったということはない。

 しかし、では、その旅に意味はあったのか、と聞かれれば、その答えは、「はい」となる。

 何かが劇的に変化したわけでもなく、何か大きなものを得たわけでもなかったが、ぼくは、ぼくなりに、この旅によって、失ったものを取り返す準備と覚悟くらいは出来たような気がしていたのだ。

 

 この物語は、決して、行った先々の国の文化や観光地を紹介する類の紀行文ではない。

 訪れた国ごとに、その土地を利用しながら、ぼくが自分本位に行った、過去や未来との対話を文章にしたものである。

 これといって崇高なものなどではない拙文を、みなさんに面白おかしく読んでいただければ幸いである。

 

 

続きはこちらをどうぞ↓
第2話 「偶然とは恐ろしいもの」 -韓国

 

 

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